大工の息子として大阪市住吉区に生まれたが、生後3カ月で東京市荏原区中延(現在の東京都品川区中延)に転居。第二次世界大戦中は、神奈川県横浜市戸塚区の親戚宅に縁故疎開していた。 1945年から1950年まで東京の浅草竜泉寺で育ち、1948年、台東区立下谷中学校1年の時、友人と共に『鐘の鳴る丘』の舞台のオーディションに行ったところ、台詞の読みの闊達さを買われて自分だけが採用され、戦災孤児の役で子役デビュー。この舞台をきっかけに児童劇団に入り、NHKのラジオに出演。 中学校では人気者で、生徒会の副会長に選ばれた他、卒業式では卒業生代表として講堂で落語を演じた。 東京都立大森高等学校卒業までに谷口千吉監督『潮騒』など東宝や大映の青春映画に出演するも、高校卒業の頃に児童劇団を辞め、日本大学芸術学部映画学科では新劇をやるために影万里江、増山江威子、稲吉靖司、北浜晴子、豊原ミツ子らと「劇団山王」を組織し、石原慎太郎の『処刑の部屋』などを演じた。また、この「山王」時代の仲間の一人が後に『笑点』で共演する立川談志と知り合いで、仲を取り持っていたこともあって、毒蝮曰く、談志とはこの当時から「ウマが合っていた」とのこと。 1960年代半ばまでは本名の石井伊吉を芸名に俳優として活動、テレビドラマには草創期である1950年代から出演している。1966年には『ウルトラマン』に科学特捜隊のアラシ隊員役で出演、子どもたちの人気者となった。引き続き翌年の1967年に制作、放送された『ウルトラセブン』でもほぼ同様の役柄であるウルトラ警備隊のフルハシ隊員として出演した。『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の両方に起用された理由について、毒蝮は「輝いてるって言うのと同時にね、丈夫で安いんですよ(笑)。病気をしないんです」と述べている。 『ウルトラマン』放映中の1967年より『笑点』の当時の司会者立川談志の誘いにより、同番組に座布団運びとして出演。当初は本名で出演していたが、当時『ウルトラマン』に出演中だったこともあって「何で正義の味方が座布団運びやってんだ」といった苦情などがTBSテレビの方に入っていることを聞き、芸名を付けようということになった。「毒蝮」という芸名は、談志が「怪獣ドラマに出演しているなら怪獣風の芸名にした方が良い」「怪獣にも負けないような名前で、蝮ってのはどうだ?」と名付けたもの。談志は石井が就任した当初から「マムシ」と呼んでいたが、当時大喜利メンバーの1人だった5代目三遊亭圓楽が「ただのマムシじゃ面白くねぇ、毒を付けろ」と言ったのを談志が気に入り定着させた。また下の名前の「三太夫」は『笑点』より前に出演していた『談志専科』という番組で石井が家老?田中三太夫役に扮し、殿様役の談志と社会風刺や世相巷談を繰り広げていたことが元で命名された。番組中で改名披露を行った『笑点』の1968年12月15日放送分から「毒蝮三太夫」に改名した。後年有名になった年配者相手の毒舌トークの原点は『笑点』にある。 1969年にはTBSラジオで『毒蝮三太夫のミュージックプレゼント』が放送開始。現在もなお続く長寿番組である(永らく『大沢悠里のゆうゆうワイド』の内包番組として放送され、2016年4月8日の同番組終了後も当コーナーは継続すると2016年1月18日放送分の同コーナーで明言された。その後、月曜から木曜の週4回『ジェーン?スー 生活は踊る』内で放送されていた)。2018年4月より「金曜たまむすび」の午後2時からのコーナーに移動し、毎週金曜日の週1回の放送に縮小された。2020年3月6日の放送で、同年4月分から「土曜ワイドラジオTOKYO ナイツのちゃきちゃき大放送」内での月一内包へと移行されることが明らかになった。 1971年、当時の立川談志の所属事務所だった「談志プロダクション」の社長に就任、同時に「まむしプロダクション」に改称する。1973年に株式会社を設立(商号は株式会社まむしプロダクション)。他の所属に落語立川流一門の多くの落語家、別れたはずの師匠5代目柳家小さんを擁するなど、規模の大きな芸能プロダクションであった。 1999年、ゆうもあ大賞を受賞。 2016年5月8日放送の『笑点』に、ゲストとして約46年ぶりに出演した。